2011年07月28日

「コクリコ坂から」

横浜の109シネマズMMにて鑑賞。
平日夜6時20分上映の回でしたが、席は6割くらいの埋まり具合でしょうか。年齢層は30〜40代くらいがメインですが、幅広く分布してそうな様子でした。
そういえば、スタジオジブリの映画をロードショーで見たのは初めてかもしれません。
舞台が横浜なもので、一応横浜市民としては、見ておきたいな…と。

僕は、ジブリの映画で好きなのは、「ラピュタ」「ナウシカ」「カリオストロ」「トトロ」の順で、最近のはあまり好きではないんですよね(アリエッティとポニョは見てないし…)。「千と千尋」や「ハウル」などは、テーマを高尚にしたいのかもしれないけど、その分抽象性が高くて分かりづらい感じだし、絵も細かく描きこみすぎで「アニメでここまで動かせる」というのを主張したくてやってるんじゃないかと思ったくらいです。
その点「コクリコ坂から」は主人公である海の心情(家族への思いと俊への恋)とカルチェラタン(学校の古い部室用校舎)の取り壊しをめぐる騒動という、古典的で具体的なテーマをていねいに描いたという感じで、好感が持てました。

「ていねいに」というのは、筋立てもそうなんですが、作画や音の演出面にも感じたことです。
作画は、背景はとても美しくかなり描きこんであるのですが、人物や乗り物などの「動く部分」は、かなりシンプルな感じだったと思います。ただ、例えば目の動きとか、体の重心の移動とか、そういう部分をきちんと描いて、美しい動きだなぁと感じた場面が多々ありました。
それから、音については、生活音のいれ方が素敵でした。というより、僕が幼い頃にはこの映画で描かれたような生活環境が残っていたので、聞き覚えのあるなつかしい音を聞いた、という感じです。マッチをする音とか、キャベツを刻む音といった「いかにも」な音だけでなく、木造住宅の廊下を歩く時の木のきしむ音なんかが印象的でした。
とはいえ、写実一辺倒の演出ではなく、全学討論会で俊が高笑いする場面やそれに続く乱闘シーンなどは、アニメ的にデフォルメされていて、「ラピュタ」でドーラ一家と親方が対決するシーンと重なりました。自転車やオート三輪が坂道を疾走していく時のスピード感や、大きな船がゆったりと海上を進んでいく重厚感などもふくめて、「ラピュタ的」な雰囲気を感じるシーンが多かったように思います。
ラピュタは「空」、コクリコ坂は「海」という違いはありますが、どちらも大きく広い場所であり、未知の世界を感じさせる場でもあります。バズーの父は空で亡くなり、海の父は海で亡くなっているという点も同じですしね。ラピュタはシータが空から落ちてきましたが、コクリコ坂は俊が屋根から落ちてくるとか…。

さて、学生たちの討論する内容や雰囲気は学生運動的な要素を感じさせて、それは僕たちの世代よりも少し上の世代になるのですが、カルチェラタンで活動する学生たちの「めいっぱい背伸びしてカッコつけてる感」が良かったですね。また、何度かある合唱の場面や、時計塔の鐘が校内になり響く場面など「場の一体感」を見事に描いていたと思います。
僕たちの世代もそうかもしれませんが、それ以降の世代の人間だと「周りが許してくれないなら、個人的に勝手にやるさ」という感じになって、自分たちの場を守ろうとか、自分たちのしていることの意義を周りに主張したり、わかってもらう工夫をしたりという努力を、しない可能性の方が高いのではないかな…と思います。それに、「自然体」がよいことで、「背伸びしてみせる」のは良くないことだ、という風潮も僕らの世代の特徴かもしれません。

僕は1966年の生まれですから、この映画の舞台である1963年には生まれていませんが、先にも書いたように、僕がものごころついた時には、まだこの時代の雰囲気が残っていました。オート三輪や二層式の洗濯機、木造校舎や買い物カゴ。また、劇中に出てきた「白い花が咲く頃」は、僕の父親の愛唱歌で、幼い頃にはよく聞かされたものです。
パンフレットで宮崎悟朗監督が書いていたように、高度経済成長期に生まれ育ち、青春時代はバブルの真っ直中という世代です。自分たちが無くしてしまったもの、けれどもどこかで憧れ続けてきたもの、そんなものが描かれた映画だったのではないか、と感じています。尤も「憧れ続けてきた」と感じるのは、バブルの時代の価値観にイマイチ乗り切れてなかった僕らのような「時代に乗り遅れた」人間だから感じることかもしれませんし、もう少し世代が上で、この時代をリアルに体験した世代だと「マイナス面を切り捨てて美化しすぎ」と感じるかもしれません。

さて、もう一つ、舞台としての「横浜」についても書きたいのですが、それはまた別の記事で。
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2010年05月03日

劇場版"文学少女"

川崎TOHOシネマズにて鑑賞。公式ホームページはこちら

GWもほとんど休みなしで仕事です。本当はGW明けの休みの日にゆっくり見ようと思っていたのですが、色んな予定が目白押しで「ゆっくり」が不可能そうなのと、ネット上の評価が予想以上に良いのに背中を押されて、仕事帰りのレイトショーに行って来ました。
観客は30人ほど。20代後半と思われる男性が多く、予想よりやや客層が高めでした。

エピソードは映画の尺に合わせるために大幅に削られ、ストーリーもかなり変更されていましたが、劇場版を1つの完結した話としてまとめるには、これくらいやった方が良かったのではないかと思います。ストーリーの改編は、一本テーマが通った感じで、流れとしては悪くありませんでしたし。
千愛派とかななせ派とかの人は、存在感なくて不満かもしれませんけど(笑)
絵の雰囲気も良かったし、声も僕のイメージにはぴったりでした。もっとも、原作の方がシリアスとコメディの振幅が大きいですけど。映像の場合は、漫画や小説と違って画面がつながってるんで、振幅をそのまま再現するとバランス悪くなるんですよね。その辺りのサジ加減もよかったと思います。

それでも、いくつか気になる点はあります。
まず、心葉がこれまで美羽のことを気にしていたことを、もう少し匂わせておいて欲しかったなということ。もちろん3巻かけて伏線を張った原作には及ぶべきもないのですが、美羽のことがあったせいで、心葉は小説を書くことに抵抗がある(遠子先輩のおやつもなかなか素直に書けない)点を強調しておけば、ラストで心葉が小説を書こうと思った理由に説得力が出たのではないかと思います。
あと、プラネタリウムのシーンのラストは、美羽が浄化されすぎかな。まだ、歩き始めたばかりなんだから(精神的にね)もっとヨチヨチ歩きでいいではないかと。原作よりスッキリ系なのはいいんですが、あんまりスッキリしすぎると影の存在が軽くなってしまうんで。

あと、これは不満ではないのですが…
ラストの駅のシーン、「銀河鉄道999」を思い出しました。劇場版の方。ドアが閉まる前の○○から、走り去る列車を眺めるまでの一連の流れ…。あれはやはり少年の成長譚の王道です(笑)

というわけで、総合評価は決して悪くないのですが、人に薦めたいかと言われると微妙です。
文庫本5冊読むのに負担を感じない人にであれば、ぜひ原作の方を読んでもらいたいと思ってしまいます。
やっぱり、文章の味わい深さという点、登場人物の心のひだの部分の描写という点では、原作の方が上ですからね。
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2009年08月11日

「ルーキーズ」

TOHOシネマズ ららぽーと横浜 にて鑑賞。

僕は、ドラマは見ていないのですが、妻が時々見ていたらしく、続きが気になるので見たいとのことで付き合った次第です。
ドラマを見ていないということは、これまでのストーリーの流れやエピソードを把握していないということなので、それらをふまえて見た場合とは、ちがう印象になるかもしれませんが、一応、独立した作品として公開されているわけですから、それでもわかる内容ではないといけないだろうという立場で語っております。
こういう断り書きを入れるのは、僕が、この映画にあまりいい印象を持たなかったからです。なので、ドラマ以来のファンの方には、もしかしたら腹立たしい内容になってしまうかもしれないなぁと思ったわけです。

特に、ラストのメンバー一人一人が監督に別れの挨拶をする場面。何カ所か、きっとドラマのエピソードをふまえてるんだろうけど、自分にはわからないなぁと思いながら見ていました。

さて、僕がこの映画を見て一番感じたのは、「夢をかなえること」があまりに一義的に語られすぎているということです。
もちろん、彼らが甲子園出場を夢見て、それに向けて精一杯努力していることを否定するものではありませんが、夢を見ているのは、彼らだけではないはずです。彼らと対戦した高校の生徒たちも、同じように夢を見て、同じように努力してきたはずです。その努力は何も報われず、ニコガクの野球部だけの夢だけが唯一絶対のように語られることに、違和感を感じたわけです。

たとえば「タッチ」でも「H2」でも良いですが、主役のチームに対抗するライバルの存在が必ずあります。「タッチ」であれば新田くんや西村くんですし、「H2」では比呂と英雄がライバル同士ですが、栄京の小倉(控えのキャッチャー)や伊羽商の月形とか、他にも良いライバルがたくさん登場します。彼らは、お互いが夢にむかってどれだけ一生懸命かを知っていますから、自分だけが勝てるとは思っていないんです。思っていないからより努力するし、負けた時にも、相手を褒め称える勇気があります。
この映画の中で、笹崎高校について、川上貞治について、どれくらいのことが描かれていたでしょうか。単に、「俺のことを馬鹿にしやがった気にくわないヤツだ」程度ですかね。だからマウンドでいくら必死そうにしていても、何も同情の余地はないと? そういう風に考えてみると、「ルーキーズ」の中で描かれている「夢」が、いかに「独りよがり」で「排他的」なものであるかがわかります。

「甲子園の空の笑え!」(川原泉)とか「逆境ナイン」(映画版は変にシリアスしようとしているのでダメです。島本和彦さんのマンガの方)なんかとも、比べてみると色々と面白いことが書けそうなんですが、とりあえず、このくらいで筆をおさめましょう。

そういえば、登場人物の名前が、ぜんぶ実在の野球選手の名前になっているのは、面白かったです。ニコガクの関係者は、ぜんぶ阪神でしたね。安仁屋とか、僕が子供の頃の選手なんで、気づいてない人も多いかもしれません。
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2009年08月07日

「サマーウォーズ」

109シネマ川崎にて鑑賞。
夜の時間だったこともあってか、完売のアナウンスが入る正真正銘の満席。
公式サイトはこちら

「エヴァンゲリヲン:破」を見に行った時に予告編が流れており、「時をかける少女」の細田監督の作品、しかも貞本義行さんのキャラクターデザインだと知り、ぜひ見ようと思っていました。

それで、実際に見た感想はと言えば…


恥ずかしい話ですが、都合3回泣きました…
亡くなったおばあちゃんの顔を思い出しました…
いい映画を見られて幸せでした。


と、これで終わっても良いかとも思ったんですが、
気を取り直してもう少し。

戦国時代から続く家柄の大家族の物語…なんていうと、家族愛を謳ったアナクロな物語を想像するかもしれませんが、決して家族を美化した物語ではありません。
うるさい子供ははしゃぎ回って大切なことの邪魔をするわ、先祖の昔話を語り出す叔父さんはいるわ、自分の好きな人を取られたと思って敵意を剥き出しにするマタイトコはいるわ、口うるさいおばさんはいるわ…という感じです。
そして、そんな前時代的な大家族との組み合わせは、「OZ」という名のバーチャルコミュニティ。
普通に考えると相反するような二つのシステムが、なぜか絶妙のコンビネーションで解け合い、不思議な世界観を醸し出します。
ネットの世界も、決して美化して語られるわけではありません。
そもそも、このお話はサイバーテロの話です。ネットに依存する社会の危険性が背景に存在します。
サイバーテロを続ける侵入者に立ち向かったキングカズマが敗れた時に、ネットの掲示版に書かれる情け容赦ない文句の数々、自分では何もできないクセに、追い詰められた時にカズマに頼ることしかできない無力な人々の群れ…。
けれども、最後に地球を救ったのは、家族を守ろうとする決意であり、家族に励まされた勇気であり、名もなき人々の団結の結果だったわけです。

夏希先輩の人となりをもう少し描いて欲しかったかなぁとか、最後の対決がなぜに花札?とか、気に入らない点がないとは言いません。
しかし、キングカズマのアクションを始めとしたネット上のバーチャルリアリティのカッコ良さ、古きよき日本の姿を思い出せてくれる美しいシーンの数々が、そんなものを吹き飛ばしてくれます。
何より、人と人とのつながりの大切さをしみじみと感じさせてくれるシーンの数々…それが血縁でも、友情でも、仕事の関連でも、また、ネットというバーチャルなものであっても……

ぜひ、たくさんの人に見て貰いたいと、自信を持って言える作品です!
タグ:細田守
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2009年06月26日

「おと・な・り」

109シネマズ・MM横浜にて鑑賞。
「虹の女神」の熊澤尚人監督の作品ということで、期待しておりました。
「ニライカナイの手紙」でも、主人公はカメラマンだったし、今回も主人公の一人はカメラマン。そういう設定がお好きですね。

タイトルが示す通り、「生活音」を通して繋がっているおとなりさん同士の話です。
ですから映画でも音の質には気を遣っているようで、そういう意味でも映画館で見て正解でした。
もちろん、心地良い音ばかりではなくて、時には不快な音もあって、腹を立てたりすることもあるわけですが、それでも「人の存在を感じ取る」手段にはなっているわけです。
人を感じる意識がもっと鈍ければ、生活音なんて気にしないか迷惑に感じるだけだし、もっと交流のある場であれば、音だけでつながっているなんてないわけですから、いかにも現代の都会的な状況なのかなとも思います。
そういえば、「毎日通っているコンビニ」なんてのも、割と重要な役目で登場してますし。

そういった関係が、物語のラストの方で、大きく変わってきます。音以外のつながりが、発見されていくのです。この「発見」というところがミソで、前から自分の中にあったものだからこそ、共通点がみつかった時に、「自分が認められた嬉しさ」を感じることになるのでしょうね。
主人公の二人が、それに気づいた所でストーリーはおしまい。「出会い」までしか描かれていないのですから、恋愛映画とはちょっと違うのですが、それでも幸せな気分で見終われる映画ではないかと思います。実は、エンドロールで、二人の未来を暗示する場面が流れるのですが、音にこだわった映画らしく、流れるのは音(セリフもふくめて)のみです。そんなエンディングも素敵でした。

ただ、この映画は恋愛的要素だけで成り立っているわけではなくて、悩めるアラサー(around thirty)の物語でもあるわけです。三十歳独身で仕事も順調ではあるんだろうけど「自分らしい仕事」ができているかどうかわからない。結婚とか子どもを持つということに憧れもあるけれど、自分は、となると考えてしまう。親との関係もしっくりいかない。そういう、色んな要素が、しかもさりげなく配置されています。だから、先ほど「幸せな気分で見終われる」と書きましたが、見ている間じゅう、ずっと幸せな気分でいられるかというと、そうでもないと思います。結構、ドキッとさせられるどんでん返しもありますし。

最後に、写真関係のことをいくつか。
先ほど挙げた「音以外のつながり」の中に、ふるさとの風景が入っています。聡が高校時代に写真雑誌に送って入選したコスモス畑の写真。七緒がいきつけの喫茶店で見上げる狭山湖の写真。これが、二人の接点になっていくわけです。僕も、写真を撮る人間ですが、こういう写真のあり方って素敵だと思います。芸術の世界では「オリジナリティ」が求められる部分がありますが、僕はそういうのって苦手なんですよね。みんながどこかで感じていることを、きちんとすくい上げて形にしたい、それが僕が写真や、物語に求めていることなのかな、と思いました。
それから、聡はカナダに行って風景写真を撮ることを夢見ているのですが、そのカナダの写真を提供したのが、写真家の吉村和敏さんだそうです。僕は、吉村さんのブログの愛読者ですし、展覧会も拝見させていただきました。今、吉村さんは日本の風景写真にも取り組んでいらっしゃるそうなので、僕としては、カナダよりもそちらの方が楽しみなんですが。
タグ:熊澤尚人
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2009年03月14日

「ヤッターマン」

3月12日に、109シネマズMM横浜にて鑑賞。

ヤッターマンは、ちょうど僕が中学生の頃の番組で、リアルタイムで見ていた世代です。
悪玉トリオの歌も、空で歌えたりします。「好っきなもの、好っきなもの、ダイナモンド♪」…違う…。「悪っいこと、する度に人気が出ちゃう♪」…これも違う!

てな冗談は置いておいて、そんなわけで、深田恭子のドロンジョは「アリ」か「ナシ」かは、実写版ドラゴンボールは「アリ」か「ナシ」かよりも極めて重大な問題なのであります(笑)
※蛇足ながらつけ加えておくと、原作のドラゴンボールだって、ピッコロ編が終わった後は、初期のマンガとはずいぶんと趣きの違ったものになっていたわけで、本来なら、原作の世界観云々の話は、その時に出てしかるべきだったと、今でも思ってます。

さて、そんなわけで、深田恭子のドロンジョですが、僕的には、十分「アリ」です。
ドロンジョは、コスチュームはセクシー系ですが、愛嬌のある所もあって、それが故の「どこか憎めない悪役」なのですが、そんなイメージに、思ったよりぴったりあてはまってました。欲をいえば「やっておしまい!」はもう少し苛立ちをふくんだ声でやって欲しかったかな。「スカポンタン」の発声が割りと良かっただけに、残念。ヤッターマン一号にふられた後の立ち直り具合といい、ドクロストーンのダブルアタック(これも懐かしいネタですね)に至る雰囲気といい、なかなか良かったと思います。「下妻物語」の迫力には及んでなかったかなぁという所はありますが。

しかし、それ以上に「ハマっている!」と感じたのは、生瀬勝久さんのボヤッキーです。セリフ回しだけでなく、表情の作り方まで、完璧。トンズラーのケンドーコバヤシさんも良かったですが、ドロンジョとのからみで、ボヤッキーの方が目立つ出番が多いですから、その存在感は抜群です。

というより、この映画、悪玉トリオを主役にするつもりで作ったんじゃないかと思われる感もあります。ドロンボーの歌(『天才ドロンボー』というらしい)を二番までいれてるくらいですからね。往時のファンの人は、あれを見るだけでも映画代を払う価値があるんではないかと思います。

それに対して、ヤッターマンの方は、微妙にカッコ悪く描かれてます。
70年代後半というのは、「ヤマト」とか「三年B組金八先生」とか、割りと大上段にふりかぶった作品が多かった時代です。その後、「ガンダム」に至って、単純な善と悪ではない世界観が出てくるというのが、アニメの世界での一般的な認識になっています(金八先生はアニメじゃないですけど)。だから、ヤッターマンをそういう風に描くのは、ある意味「押し付けがましい」正義に対するアンチテーゼのようなものがあるのかもしれません。
でも、僕は、この作品については、あえてそれを強調する必要はなかったのじゃないかな、と思います。というのは、ヤッターマンは明らかにコメディであり、もともと高らかに正義を謳い上げる作品ではなく、元よりそれをパロディ的に描くことで茶化してやろうとする雰囲気があったと思うからです。まぁ、それが過剰すぎて作品の雰囲気を悪くするという所までは行っていないので、だから映画自体を失敗と判断するまでの所ではないですが。
あと、「ちょっとこれは…」と感じたのは、前半のシモネタかな。あのロボットの動きはちょっとねぇ…。

ただ、気になった所というのは、そんなもので、おおむね満足のいく作品でした。
あの作品の面白さには「マンネリであること」も含まれているので、その辺がどう料理されるのかな、と思っていましたが、そこはうまく処理されていたと思います。
渋山駅ハッチ公口とか、竜の子プロのアニメで育った世代には、懐かしいネタも満載です。
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2007年10月29日

「仮面ライダー THE NEXT」

109シネマズ横浜MMにて鑑賞。日曜の夜のレイトショーでしたが、30人以上は入っていたようです。年代は20代から40代くらいまで。

前作「仮面ライダー THE FIRST」の感想はこちらです。

出だしは、何かホラー系の映画のようでした。パンフレットにも、初期のテレビシリーズの怪奇性を取り入れたというような記述がありました。そういえば、僕が小さい頃によく見たこわい夢の一つは「コウモリ男に襲われる」というヤツでした(^^;
僕はホラー系の映画は苦手なので、あまりそれをプラス評価にはしたくないのですが、かなり怖い作りだったことは確かです。3回くらい本気でビクッとなりました(^^;

前作に比べてアクションはさらにパワーアップした印象がありますし、人間ドラマも深かったと思います。
いい場面、いい台詞も多いです。
アクション的には、ダブルライダーキックも見られますし、仮面ライダーに思い入れのある人なら、見て損はないでしょう。

でも、ひっかかる所がいくつかあることも確かなので、手放しでは誉められないかな…
仮面ライダーに思い入れがない人に、この映画をぜひ見て欲しい…とまでは言い切れない感じです。
以下はネタバレを含みますので、未見の人はご注意を。

まず、水槽からはい上がろうとしているChiharuと包帯の怪人。初めは同一人物だと思っていたのですが、どうも別々の個体のようです。どういう関係なのか、映画の中で説明がなかったので、どうもスッキリしません。なぜ、Chiharuがあそこから出ようとしているのか、なぜあそこで志郎を攻撃するのか、そのあたりもよくわかりませんでした。「改造人間にされてしまった妹を、兄が殺さざるをえなくなってしまう」という状況だけを見れば悲劇的なのですが、感情移入がどうもできなかったです。
憎しみに駆られ、次々と人を殺してしまう存在になってしまった妹。そんな妹を見てはいられない兄。兄との邂逅によって一瞬だけ戻る理性(きっかけは琴美でも可)。そして、彼女の口から悲痛なつぶやきが漏れる…。なんて展開の方がいいと思うのですが、どうでしょう。
映画の流れだと、単に姿が醜くなってしまったのが嫌だった、という感じでもう一つ深みがありません。

猛が最初、琴美に構いすぎるのも違和感がありました。周りの連中だって十分に問題ありそうなんだから、彼女が早退するくらいで、あんなにこだわるかな…と。学級崩壊の様子とか、最初の引きこもりの少年もそうですが、ああいう極端な場面を描いておくと「社会派」みたいな雰囲気になるのかもしれませんが、僕は却って「悪役」の安易な押しつけになってしまう感じで、あまり好きではありません。Chiharuに殺される人々も、もっと普通の人たちにした方が、「自分も巻き込まれるかもしれない」という感覚になってスリリングだと思うのです。

石田未来さんは、カメラ雑誌のグラビアでは見たことがあるのですが、演技している姿は初めてみました。髪を切った感じが、前田愛さんに似ているかな…。気の強いボーイッシュな女の子を、存在感たっぷりに演じていたと思います。彼女の言葉が、風見志郎の気持ちを変えるわけですし、Chiharuの悲しみを代弁もするわけで、彼女の演技があってこそ、人間ドラマを感じさせる映画になっているともいえます。でも、最後の一言はどうかな…。彼女はChiharuに対しても、乱暴な口調だったのですから、そういう性格の女の子、でいいと思うんですよね。猛に対して心を開いて「やっぱりホントはいい子でした」ってオチにはして欲しくなかったような。
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2007年07月10日

「転校生 さよならあなた」

さて、いよいよリメイク版「転校生」について。
川崎チネチッタで鑑賞しました。
観客は十人ほどで、昼間の上映だったせいか、年配の方が多かったです。
※このブログでは常にそうですが、ネタばれをかなり含みますので、未見の方はご注意下さい。

最初の方は、人物設定・背景設定のちがいはあるものの、旧作と重なる部分も多く、「そういえば、旧作ではこんな感じだったよなぁ」と思い浮かべながら、むしろ懐かしさを感じて見ていました。
この時点で思ったのは、旧作に比べて結構色々な題材を入れてきたな、ということ。
一夫が転校してきたのは両親の離婚のためで、母一人子一人の家庭。一方、一美の家は三世代同居の大家族。さらに、一美と一夫の対照もジェンダーフリーの風潮に沿ってか、旧作とは違う見せ方をしてました。
例えば、ご飯の食べ方。旧作では一夫の乱暴な食べ方を、家族があきれてみてる、という図式でしたが、今回は、大家族のせいでおかずの取り合いがあるのに一夫がついてゆけず、むしろ呆然とする場面も。旧作では数学の問題が解けずに黒板の前で立ち往生するのが一夫だったのに対し、今回はピアノがひけない一美を一夫がどなりつけるという具合です。だらしないのは男、しっかりしてるのは女、というお約束をあえて打ち破ろうと意識したのではないかと思います。

さて、問題の後半です。
前回の記事で、旧作の最後で一美が死にたいと思う部分が唐突ではないか、ということを書きました。
今回は、そこが不自然にならないようにということではないのでしょうが、一夫(肉体的には一美)が治癒の見込みのない病気にかかってしまいます。必然的に「死」と向き合わざるを得ないわけです。
また、精神と肉体を対比的にとらえるのではなく、人を形作る両輪として描いている部分も目立ちました。
特に印象的なのは、一美と一夫が元に戻った後、二人で一緒に歌をうたう場面。その歌は、一夫が一美の体にいた時に、ピアノを弾きながら即興で作った歌です。ピアノを弾いていたのは一夫ですが、一夫は詞を作るのは得意ではなく、そのインスピレーションは一美の肉体だからこそ生まれたものではないかと語ります。そして、歌声は肉体が生み出すもので、一夫の声で歌ってもあの歌にはならない、だから歌うのは一美であるべきだ、ということになるのです。
さらに、一美の死は、二人の永遠の別れを意味します。「オレがお前で、お前がオレ」で「二人で一人」であるという経験を経ていたとしても、二人はずっと一緒にはいられず、一人で自分の人生を歩んでいかなければならない、というわけです。もちろん、その中に一美の存在を内包しつつではありますが。

「死との対峙」「肉体と精神」「訣別」、これらの要素は、今回のリメイクで新しく提示されたテーマのように見えますが、「精神と肉体」という要素以外は、実は、旧作でもテーマとして内包されていたと思うのです。
旧作において、尾道へ帰る渡船の中で、死にたいと言う一美をなだめつつ「どうしても、って言うなら、その時は一緒にだぜ」と言う一夫の台詞。「君のためにこそ死ねる」という台詞が何度も登場する新作と比べれば、さりげない台詞ではありますが、わずか一言であっても、その決意の深さをうかがい知ることができるでしょう。
また、ラストで遠ざかる一美の姿を8ミリで収める一夫。8ミリの画面の中、しかもモノクロームで描かれる一美の姿は、「追憶」をイメージさせます。その一方で、一美はトラックを追うのをあきめた後、軽やかにスキップしながら戻ろうとします。この姿からは、別れを悲しむだけではなく、これから別々の人生を歩むことへの前向きな気持ちを読み取ることができるでしょう。そして、最後に振り向く一美に、一夫が「サヨナラ、オレ」と呼びかける。ここには、一夫の側の前向きな思い、そして幸せな過去の日々への温かい思いを感じることができます。

とは言うものの、新作では、より明確な形で、テーマに切り込んでいるように思えます。
ただ、それがために、画面に映し出される映像が、あるいは口にされる台詞が、いささか象徴化されたものになりがちになった面は否めません。
そして、最後に「死」が描かれる以上、登場人物の心情に、そして見ている側の心情に、陰の部分が存在することも確かだと思います。
旧作「転校生」の、情緒的な部分はもちろんあるにしても、基本的には楽しんでみられる部分。登場人物たちの生き生きとした姿や表情の積み重ねによって表現される心情と、その背景として描かれる尾道の風景の素晴らしさ。
それらの、「転校生」を名作ならしめていた部分が、新作には見られなかったという印象的も受けました。

僕、個人の好みで言えば、象徴性の高い表現よりも、個々の場面をていねいに描き、その中から見る側が自分の中で何かをつかんでいく、という表現の方が好きです。今の僕は、新作「転校生」を見て、そのテーマを感じることができていると思います(単なる思い込みの可能性もありますが)。しかし、高校時代の僕が、新作で描かれた一美と一夫に、旧作での彼らに寄せた共感と愛情を感じることができるかというと、ちょっと心配な点があります。

ただし、それは僕の好みと、出会った時期の問題であって、新作「転校生が、旧作にはない何かを持った映画であることは確かだと思います。
posted by akira at 03:23| Comment(0) | TrackBack(2) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年07月06日

「転校生」回顧録

リメイク版の「転校生」を見てきました。
それについての感想を書こうと思うと、どうしても旧作との比較になってしまうんですね。
で、書いているうちに、旧作について書きたいことが山のように出てきてしまい、独立した記事になってしまいました。
というわけで、最初は元祖「転校生」の話です。

B00005HXBN転校生
小林聡美 尾美としのり 佐藤充
バップ 2001-04-21

by G-Tools


僕のブログを割と頻繁に読んで下さっている方、もしくはプロフィールに目を通して下さった方はおわかりと思いますが、僕にとって大林監督の「尾道三部作」は特別な存在です。
ただ、「三部作」と並び称されていれも、自分の中での各映画の位置付けは微妙に違っています。
「転校生」は、最初に好きになった大林映画であり、尾道を好きになるきっかけとして最も大きく作用した映画です。そして、当時浪人生という不安定な立場にあった僕に、自分にとっての故郷とは何か、自分自身とはどういうものか、そういう立脚点を見つける上で、多いに刺激と影響を受けた映画でもあります。この映画に出会っていなかったら、自分は今の自分とはまったく違った人間になっていたかもしれない、と言っても言い過ぎではないと思っています。
しかし、その一方で、映画の洗練度という意味では、三部作の中で最も低いのではないか、という評価も与えています。
男と女が入れ替わるという状況は、あえて「性」を意識させることにつながります。そして、自分の「肉体」の持つ意味の再確認にもなるでしょう。もちろん、それは大切なことなんだけれども、その描き方がちょっとエキセントリックに感じる部分があるのです。
最も特徴的な場面は、一夫の部屋で一美が自分の体にさよならを言いたい、と言い出す場面。あそこであえて裸にこだわる必要はないし、一美の口調や動作に、自分の体への愛着ではない部分を匂わせようとする意図を感じてしまうのは、考え過ぎでしょうか。
僕の好みでいうと、宿屋で二人が並んで寝ながら、お互いの顔を見ながら、一夫が「なんだか自分の顔じゃねえみてえだ」という場面。ああいう雰囲気の方が、ずっと好みです。
それから、シリアスな場面とコメディチックな場面のアンバランスさもあります。特に、一美が最後の方でしきりに「死にたい」ともらす部分に違和感を感じます。最初の方で、一美が衝動的に教室を飛び出す場面は、まだ入れ替わりを受け入れていない状態ですから、そんな風に思ってもしょうがないけれど、最後の方では「斎藤一夫として生きるのも悪くないかな」って思ってるわけですよね。それなのに、急に世をはかなんだかのような気持ちになってしまうというのは、どうも唐突に感じてしまうのです。
それから、天満宮の階段から落ちて二人が元に戻る場面。「いっけねぇ。また、服が入れかわっちまった」という台詞があります。この「また」というのがくせ者なのです。原作では二人が最初に入れ替わった時に「服が入れ替わちゃった」と思う場面があり、だからこそ同じ行動の反復という対句的面白さが生きるわけです。でも、映画では最初の入れ替わりにはそういう台詞はなく、単独の台詞としては、ものすごく違和感があるのです。
ちょっと先走りして書いてしまうと、実は、この台詞、リメイク版「転校生」にも、そのまま使われているんですね。リメイク版の前半は、後半の大幅な変更と対照させるかのように、あえて旧作に似せて作った部分があるのではないか、と思っています。この台詞については、「あえて」でなければ他に残す理由が考えられないので、どうも確信犯のような気がします。

というわけで、僕としては、元祖「転校生」に、深い思い入れはあるものの、「一場面も変えてはならん!」と思うような考えを持っているわけではない、ということを言いたかったわけです。
リメイクが僕の意図とは違う方向に行われ、かえって好みとは外れる場合もあるでしょうし(最近の大林監督の作風を考えるとその心配もあながち杞憂とはいえない面が…(^^;))、不安半分、期待半分といった所で見に行ったわけですね。
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2007年06月15日

「その時は彼によろしく」

TOHOシネマズ ららぽーと横浜にて鑑賞。

色々な点で原作から思い切って変えている所がありますが、それが違和感になるのではなく、映画なりの良さになっている所が素晴らしいと思います。
原作を変えなさすぎて、ただうわべをなぞったような映画になってしまうのも良くないし、
変えすぎてしまって、原作と根本的な部分でズレが生じてしまうのも良くないでしょう。

僕は「その時は彼によろしく」は「恋愛寫眞」ほど読み込んでいなかったので、映画を見た時点では、細かい点はうろ覚えでした(映画を見てから原作を読み返したので、今はかなり鮮明です(^^;)。
ただ、この物語は「恋愛」よりも「友情」「親子」という関係を感じさせる物語だ、という印象が残っていました。
原作で一番印象に残っていたのは智史のお父さんだったのですが、このお父さんの設定・人物像も、映画では大きく変わっています。ある意味、一般の父親像に近くなったのかな、という感じで、そこはちょっと不満に感じないわけでもないのですが、物語の中に占める重要性という意味では、却って上がっているくらいですし、母親の存在感もかなり大きくなっているので、「核心部を強調する」という意味で、悪い変化ではないと思います。むしろ、具体的かつ視覚性のあるエピソードを積み上げ、映画という表現に適した形にうまく変えたな、と感じました。

子供時代の思い出のキーになる「プリズム」も視覚的に効果的に使われていましたし、廃バス、オニバスの種、フランダースの犬の絵本など、原作には登場しない小道具が効果的に使われているなぁ、とも思いました。まあ、双眼鏡からペンタプリズムは取れないんじゃないかな、という部分は、愛嬌としても、です。

「いま、会いにゆきます」でも、巧の側から語られたエピソードを、後で澪の側から語る、という手法が採られていましたが、今回も、花梨の側からの語り直しがありました。特に、転居する智史を花梨と佑司で見送るシーン。まあ、ありきたりなシーンではあるんですが、現在・過去の智史・花梨の立場で、4層の思いが綴られることになるわけで、印象的なシーンになったと思います。

原作に比べて感情の起伏が大きく、ちょっと涙の過剰演出が多いかな、とは思いますし、冒頭のシーンは余計じゃないかな、とも思うのですが、全体的には、いい映画だと思います。
posted by akira at 02:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 【サ行】の映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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